Interview & Report

Keita Maruyama

Keita Maruyama 丸山敬太

KEITA MARUYAMA TOKYO PARIS

東京原宿生まれ。1987年文化服装学院ファッション工科・アパレルデザイン科卒業。1990年フリーランスデザイナーとして活動を開始。1994年には東京コレクション、1997年にはパリコレクションにデビューし、国内外で高い評価を得る。プレタラインに加えてウェディングや着物、ゴルフウェア、ホームウェアも手掛けるなど、その活動は多岐に渡る。現在クリニークからクリスマスコフレを限定発売中。今年12月、来年1月と香港のファッションイベントに召還されている。

ケイタマルヤマといえばロマンチック。情緒的でポエティックな世界観と、とびきり繊細な手仕事が施されたクリエイションは、目にした瞬間うっとり見惚れてしまうほど。先日の東京コレクション・ウィークで発表された最新春夏コレクションのテーマは「Sweet Memories」。花吹雪舞うランウェイで、今、デザイナーの丸山敬太が伝えたかったこととは。パリのアパルトマンのような空気漂う青山のブティックでお話を伺った。

今回のテーマを選んだきっかけは?

丸山:きっかけというのは特にありません。いつも物を作る際にやっているのは、そのときの気分や空気を自分の中から探り出すこと。その作業は3日で終わることもあれば、3ヶ月かかることも。とにかく自分の中で探りながら、メモにいろんな言葉を書き留めていきます。そこに集められたものの中からテーマを付けている。テーマというかタイトルですね。

 

どんなイメージが最初に浮かんできたのでしょう?

丸山:良く晴れた日に桜並木の下をそぞろ歩いて、空を見上げたときに、悲しいでもなく、寂しいでもなく、どうしようもないほど切ない気持ちが込み上げてくるようなイメージです。そんなコレクションを作りたいと思いました。

とてもエモーショナルですね。

丸山:僕は作り手側がもっと自由になってもいいと思うんです。今の時代、とにかくビジネスが厳しい。だからファッション誌を含むメディアも、僕から見ると迷っているように見えるんですよね。すべてがビジネスという壁にぶつかって、迷いながら画一的な方向に向かっていると思う。僕自身アバンギャルドではないし、すごくクリエイティブなことを主張したり、強いメッセージを服に込めたり、トレンドを作り出したり、というタイプのデザイナーではありません。大切にしてきたのは、心が満たされたり、気分が浮き上がったりする服を作るということ。着るものって人の気持ちをとても左右するじゃないですか。改めてそれを分かりやすく表現したのが、今回のコレクションだと思います。

モデルが全員ゲタを履いたスタイリングでした。

丸山:別に日本をイメージしたから、という訳ではありません。でも、結局自分が経験してきたこと以外は、自分の中にないんですよ。僕は1960年代の半ばに日本で生まれて、育ってきた。自分にとって、一番甘くて切ない気持ちと繋がるのが日本だった、というだけのことです。

東京を中心に活躍する13ブランドの女子デザイナーと組んでアイテムを作り、それを販売する移動型ショップ「Beauty Bar」という新プロジェクトをスタートされました。このプロジェクトについて教えて下さい。

丸山:まず、僕が思う新しい感覚で生きている女の子たち=“自分たちにはない新しい方法論で、ビジネスを展開している女の子たち”に興味があったんです。僕と同じ価値観で物を作っている人もたくさんいますが、今回あえてそうじゃない人たちが面白いと思い、その人たちと交流したいと思ったんです。参加してくれた女の子たちに共通していることは、ファッションや可愛いものが大好きだということ。さらに、彼女たちは共通して人生設計を持っている。僕らの時代だと、がむしゃらに働いて婚期を逃しちゃう人がたくさんいたんですが、彼女たちは“ビジネスとして成立しないことはしない”という物差しがすごくきちっとしている一方で、子供も産むし、産んだ後もものすごく働いてるんですよね。その感覚がすごく新しくて。ただひとつ彼女たちに欠けていることを挙げるなら、ビジネスという枠に縛られすぎて、クリエイティブの幅を自分たちで狭くしているということ。109育ちでギャル的なノリなのかもしれませんが、そこで止まってしまうのがとてももったいないと思う。僕だって「君たちのためにも洋服作っているんだよ」ということを伝えたかったし、彼女たちのお客さんたちにもアピールしたかった。

「Beauty Bar」の第一回目は新宿伊勢丹でしたが、これからもいろんな場所で移動店舗としてやっていく予定です。将来的には一緒にショーを発表したり、パーティが企画出来たりするといいですね。女の子だけじゃなくて、もっとアバンギャルドな人たちと組んでも面白いと思うし、アーティストやミュージシャン、ライフスタイルブランドと組むことにも興味があります。“皆で楽しくやっている”という感覚が大切です。

最近の日本のファッションを取り巻く環境についてはどう思われますか?

丸山:今は1人で立っていてはいけない時代。1という単位ではなかなか出来ないことも、2とか3とか、複数の単位でやっていけばそれだけでメッセージになると思います。最近は物で判断出来る人がものすごく少なくなりました。例えば、八百屋に、とても美味しいお肉を売っていても誰も買わないように、「お肉は肉屋が安心よね」と、見る目を持たなくなってしまった。でも、作り手が楽しくやっていれば、消費者もきっと楽しんでもらえるはず。世の中が楽しくなることは積極的にやっていきたいですね。

ところで、丸山さんが今ハマっていることはありますか?

丸山:今さらですが、韓流ドラマ(笑)。正直、ドラマの展開が分かりやすくて、クオリティはそんなに高くないのですが、とにかく人間力がすごい。それは音楽についても一緒。BIG BANG(韓国出身の男性アイドルグループ)のライブに行くと、ファンの女の子たちがものすごくおしゃれで可愛いんですよ。それを見て「日本の賢い子たちは、日本には見切りをつけているんだなぁ」って実感しました。音楽は明らかに日本を超えていますね。このままだとファッションもあっという間に越されちゃうでしょう。今の日本に足りないものは “欲” なのかもしれません。挑戦してダメだったときに傷つくことが怖いんでしょうね。何かに “カテゴライズされないと落ち着かない” というのも、ここから来ているのでしょう。

ずばり、丸山さんの人生を変えた服は?

丸山:僕の場合は洋服で生計を立てていますから、変えたというよりは、洋服にずっと助けられて、今の自分がいるという感じ。わりと小さい頃から、やりたいもののひとつにデザイナーという職業を考えていました。うちは父がプロ野球選手で、母は小さい頃から洋服が好きでしたが、それはあまり関係していないかも。僕は小さい頃からガーリーなものが好きで、紅白歌合戦の衣装を見ながらテレビの前で審査員をやっていたり(笑)。
憧れていたデザイナーは高田賢三さんです。中学生くらいの頃にTVでケンゾーさんのショーをやっていて「こういうことをやる人になりたい!」と。あと、家のすぐ近くに山本寛斎さんのブティックがあって、高校生の頃から寛斎さんの服を着ていました。サンローランも、学生の頃にとても好きでした。

ファッションにとても勢いのある時代でしたね。

丸山:80年代に流行ったいわゆるDCブームは日本独特の文化でした。海外でもゴルチェやティエリーミュグレーなど、それこそ綺羅星の如くファッションのスターが出てきた時代。そこから受けた強烈なファッションのイメージ、王道的な感覚を持っているのは、この日本において我々が最後の世代なのかも知れません。僕は今後もそういうものをやっていきたいし、僕が先輩から教えてもらったことを次の世代に伝えて行きたいと思っています。

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