Interview & Report

菊池 武夫 Takeo Kikuchi

菊池 武夫 Takeo Kikuchi 「TAKEO KIKUCHI」デザイナー

MBFWT 2015-16 A/W スペシャル・プログラム

1939年 東京千代田区に生まれる。
1961年 文化学院 美術科卒業。
1962年 原 信子 アカデミー卒業。
1964年 注文服の制作をスタート。
1970年 パリでの海外生活などを経て友人と(株)BIGI設立。
1984年 ワールドに移籍し「タケオキクチ」を発表。
2002年 6年ぶりに東京コレクションに参加。
2005年 自らのディレクションによるブランド「40CARATS&525」スタート。
2012年 2004年に後任に引き継いだ「タケオキクチ」クリエイティヴ ディレクターに再就任。

70年代に友人と設立したブランド「ビギ」「メンズビギ」によって、かのDCブランドブームの火付け役となり、1984年には「タケオキクチ」を立ち上げ、昨年ブランド30周年を迎えた菊池武夫。2000年代以降は一線を離れていた時期もあったが、2012年にはクリエイティブ・ディレクターに復帰し、渋谷明治通りに旗艦店をオープンするなど、新たなステージへと歩みを進め始めた。さらに、Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO 2015-16 A/Wでは、実に13年ぶりにショーを開催するという菊池に、現在の心境やショーへの思いなどについて聞いた。

 

まずは、13年ぶりにショーを開催することになった経緯から教えて下さい。

1984年にワールドに移り、「タケオキクチ」を立ち上げてから8年間ほどは、必ず年に2回ショーを行っていましたが、次第に莫大な費用がかかるショーを毎回続けていくことに、果たして意味があるのかと考えるようになりました。
それ以降は、ショーを開催する意味を考えながら不定期で行うようになり、やがてパッタリやらなくなりました。しかし、その間も当然、国内外のファッション・ウィークは続いていて、ショーの意義を深く考えることよりも、開催すること自体が重要なのではないかと考えるようになったことが、きっかけとしては大きいと思います。

 

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今回のショーは3/16(月)、MBFWT 2015-16 A/W初日の夜に開催されますが、どのようなショーになりそうですか。

昨年、ロンドンのサマセット・ハウスで開催された展覧会『RETURN OF THE RUDEBOY』が、今年日本でも開催されます。これは、戦後、イギリスに移住したカリブ系の黒人たちがつくった「ルードボーイ」カルチャーをリバイバルした写真や洋服、生活空間を展示していましたが、今回のショーでは、この展覧会に関わったメンバーとコラボレートする予定です。
僕がかつて行ったショーの中でも特に印象に残っているものに、ロンドンのスタイリスト、レイ・ペトリさんが率いていた「バッファロー」と一緒につくったショーがありますが、今回も当時に近いイメージで、またロンドンのカルチャーとコラボできることがとても楽しみです。
最近は、モデルが淡々とランウェイを歩くようなシンプルな演出が主流ですが、僕のショーは、出演するモデルそれぞれのキャラクターが引き立つようなものにしたいと考えています。

 

菊池さんにとって、「ショー」とはどのようなものでしょうか。

あくまでも僕個人の考えですが、ショーというのは非現実の世界をつくることだと思っています。もちろん、僕らはビジネスをしているので現実との接点は大切ですが、仮に提案したものがすぐに受け入れられなかったとしても、いつか理解してもらえる時期が来ると信じて、現実ではないデフォルメした形で新鮮な提案をしていくことが、ショーでは大切なのではないかと考えています。また、その提案を洋服だけで終わらせるのではなく、それを着る人を取り巻く環境や生活スタイルまでひっくるめたものを形にしたいという理念を持っています。

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菊池さんは、小さい頃からずっとファッションに興味をお持ちだったのですか。

第二次世界大戦直後、しばらく我が家に米軍の将校が住んでいました。しばらくして彼らは母国へ帰ることになりましたが、幼い僕のためにジーパンやレコードといったアメリカの衣類や嗜好品をそのまま置いていってくれたのです。当時はそれらを身に着けて楽しんでいました。
中学生の頃には、ジャンパーにコットンパンツというスタイルなのに、首には手ぬぐいを巻き、足元は高下駄で出かけてしまうような、ちぐはぐなファッションをすることが好きでした。トラッドなファッションは好きでしたが、雑誌に出ているようなマニュアル的な着こなしが嫌いでした。
僕はもともと洋服が好きでしたし、自分にとって一番自然な仕事だったこと、これ以外にできることがなかったということがファッションデザイナーになった理由で、とりわけ特別な感じはなく、ごく自然にデザインの仕事を続けてきたと思います。

菊池さんが「ビギ」を立ち上げ、DCブランドブームの火付け役となった70年代と比べて、現在のファッションを取り巻く状況はどのように変わっていると思いますか。

僕がビギを始めた当時は、まだ周りに他のブランドがほとんどありませんでした。当然お手本になるような会社もなかったため、自分たちの感覚を頼りに、こういうものを着たいという洋服をつくっていました。
まだ情報が少なかった当時、日本はファッションに飢えていて、知識はなくても感覚的に飛びついてくれる人が多かった時代だったと思います。それが結果的に大きな需要となりましたが、今は逆にないものがないというくらいファッションが多様化しているため、より繊細な部分での勝負になっていると感じます。ただ、洋服というのは見る人が見れば「違い」は分かるものですし、そうした細部にそのブランドらしさを感じさせることができれば、一定のお客さんは必ずついてくれる。それが仮に日本では1000人だったとしても、海外も含めれば1万人にも10万人にもなり得ます。
自分たちらしさというものを怠らずに表現していけば、必ず受け入れてもらえると思っています。

 

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2000年代後半から現在にかけては、日本でもファストファッションが定着していますが・・・

ある一定の範囲の中で、必要な要素を満たしてくれるリーズナブルなものとして、魅力はあると思います。
以前に比べると、自分のスタイルをあまり強く打ち出したくないと考える人が増えていると感じますし、彼らの欲求は十分に満たしてくれるものだと思いますが、一方で、それでは満足できない人も相当数いるはずです。我々は、そういう人たちに対して何かしらの提案をしていく必要があると思っていますし、多様化する社会の中で、そうした一部の人たちに的確に届くことをしていくことが大切ではないかと考えています。
かつては、計画を立てればそれ通りに洋服が売れるという時代もありましたが、今はそのような時代ではありません。その当時に成功を収めた人たちが、現在も市場の大半を占めているとも言えますが、そういう状況はつまらない。
もしかしたら、自分もその中に入っていると思われているかもしれない。だからからこそ、そうじゃないということをしっかり示す必要性を感じ、改めて自分のアイデンティティは何かということを伝えるために、クリエイティブ・ディレクターに復帰したところがあります。

 

その思いが、久々となるショー開催にもつながっていそうですね。東京でショーを発表するということについては、どんな意識をお持ちですか。

ファッションショーをパリやロンドン、ミラノなどで行うことも良いと思いますが、すでに東京はこれらの都市と同じように文化が成熟しています。
いまや、自分のスタイルさえ確立できていればどこでショーをしても同じだと思っていますし、世界中の人たちが東京に注目している今は、良いチャンスなのではないかと思います。海外の人たちの東京に対する興味は、ファッションに限らず、食や文化全般において強まっていて、かつてのようにゲイシャ、サムライ、スシという時代ではなく、よりコアな部分に目が向けられています。
日本はもっとそのことを認識した方が良いと思いますし、安全なだけが日本の取り柄ではなく、放っておいたらなくなってしまう運命にある路地裏の文化をしっかり残していくことが大切なのではないかと考えています。オリンピックなどにしてもそうですが、日本人の良くないところはすぐに意見がひとつになってしまうところです。色々な良いものが分散して残っている状態の方が豊かですし、現在だけを見るのではなく、過去も未来も意識したものの見方をしていかなければ、文化は定着しないと思っています。

 

最後に、今後やってみたいことなどがあれば教えて下さい。

やってみたいことはまだいくらでもありますし、これまでやったことよりも、まだできていないことの方が圧倒的に多いと思っています。先ほどの話ともつながりますが、日本には古いものを大切にする文化があまりないように感じているので、まだ残されている古き良き文化や考え方を、現代の感覚と共鳴させるようなことをしていきたいと考えています。
日本人というのは非常に現実主義的なところがあって、新しいものばかり見て前に進みがちです。だからこそ、文化の奥行きというものを意識できるような余裕を持った方が良いのではないかと感じています。そのためにも、古いものを改めて見直す機会を提供するようなことをしてみたいと思っています。

 

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Interview by Yuki Harada
Photography by Yohey Goto

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